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先住民
写真を作るために東京に来ている。
東京のお父さんとお母さんの家に泊めてもらっている。
朝、パタパタと、静かなリビングルームに降りてきて、暖房とこたつを付ける。
こたつに足を入れると、違和感と同時に「フーーーーー!」という声。
布団を持ち上げ、覗き込むと猫が二匹オレンジに照らされている。
ごめん、ごめん。。自分も中にもぐってみると猫目線。ここは君らの世界なんだな。
起き上がって、猫と猫の隙間に足を伸ばし、パソコンの電源を入れる。
# by moto-michi | 2012-01-25 10:22
「行為のかたち」「写真のちから」
風景は人々の生活と自然の蓄積のブリコラージュのようだ。と最近なにかで書いたきがするが。
震災後から、人々が創造する風景の最小単位の些細な行為のひとつ/ひとつが、より気になるようになった。
そのなかで僕が撮り始めたものは、とてもちいさな”橋”や”道”のようなもの。これは”渡る””つなぐ”という「行為のカタチ」。
撮り始めた時、実を言うとαM galleryやベトナムで展示してもまだ気がつかなかったが、最近これはまた”恐ろしいもの”と出会ったものだと感じるようになった。
最近よく”つながる”とか”絆”と言った言葉が世の中に出回っているが、違和感がとても強い。
”つながる”ことは良い意味でも悪い意味でも「混ざる」ということだろう。
”つながらない”ことは、ある意味「豊かさ」を生むこともある。
ちいさくても、”橋”や”道”というのはそういう存在なのだ。
かわいい顔して凶暴な奴らなのだ。

写真を撮るというのは、「自分や自意識を表現したい」からではない。
写真を撮るというのは、「モノを作りたい」からではない。
写真を撮るというのは、「出会い」「知る」ためにやっているのかもしれないし、見せる意味としては、風景の見方を変えてみたいという欲求もある。
(ただ写真にするというのは、記憶のモニュメント化だろうし、既にそこにあるものからの奪取行為だから、持ち主からの反発を食らうこともあるが、その話はまたいつか。)

”橋”とか”道”とかは、今回の青森でも撮っている。そして徐々にそれがなんなのかがようやく分かり始めている。
基本的に写真のシリーズというのは作るのに時間がかかる。そして、その長い制作/編集時間の中で、「この撮れた物/事は一体何なのか?」「コレをなぜ自分が今撮る必要があるのか?」そんな自問自答を繰り返しながら、強固な作品として仕上がって行く「ことが多い」「のではないか」。
僕はいろいろと気がつくのが遅いから、写真をやっているのかもしれない。写真は「これだ!」とパシャと写して作品完成〜ってものではなくて、大きな絵画を絵の具を塗ったり削ったりしながら描くようなことだってある。

最近、スピーディーな滞在/制作期間で、「新作」を空間に発表する必要のあることが多い。
それは、「戦争のかたち」以後、いくつものシリーズを持ち続け寝かし続けてきた自分にとって、「新陳代謝」を良くする意味でとても良くて、脳に新しい空気が猛スピードで送られてくるようになった。その空気を”つなぎ続けるか””つながない”ようにするかはで、どちらが自分のなかで豊かさを生むかは、十分考えながら進むべきだろう。
そして、この”橋”とか”道”とか は、そんな制作にスピーディーさが必要な時に生まれてきた/撮れてきたモノ/コトたち。2011年7月にはαM gallery。2011年10月にはベトナムハノイで。それぞれ、撮影し展示してきた。ベトナムのときは、別のプロジェクトを想定して行き、やはりベトナムでも”橋”とか”道”とかに出会ってしまった。
青森でもだ。
ちなみにACACで見つけた古い雑誌で中平卓馬はこういってる。

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写真家とは、他の芸術家とは異なり、固定した自意識を展開、展示してゆく事では 無く、自ら造り上げた自意識を基点として出発するのであるが、逆に、自意識と異なる人々、事事を自ら発見した、その瞬間から撮影を開始するのである。
(1993年7月号「芸術新潮」)
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写真家はなにかとの出会い/遭遇を求めて動き回っている。
旅先で”フクロウ”や”カエル”を探し求め集めているコレクターとは違うのだ。(この人達が悪いといいたいのではない)
自分の中に出会える為の余白を用意して、カメラをさげて、歩き回る。
そして、フィルムの中に残された「見た風景」を開封し、もう一度出会う。
ただ、僕の中では最近、デジタルでも同じ事が起きている。
”橋”とか”道”とかは、デジタルで撮影しているが、こうして撮り始めて展示を2回も行い、
半年以上経って、やっと自分が撮ってきたそのものたちが持つ全体像を自分の視点を通しながら俯瞰して見れるようになってきたような感覚。
例えば、「周囲はこれを■だと当たり前に言っているが、自分にはどうしても■と認識できない。分かった気になれない。」そして、そのモノに強い魅力を感じる時、僕は写真を撮るのだと思う。

(2012.01.17)


あと、もうすこし。
「絵画を描く」ことが直面してきたように、「写真をプリントする」ことは、古臭い手法に成り下がったように見える。ただ、刺激的で真新しい表現/素材を開拓する人もいる反面、絵画や写真が人々の想像力をかき立てる素材であり続けていることに変わりはないのではないか。もしアートがアートのコミュニティ内での批評的オセロゲームなのであればそれはがっかりだ。
写真は明らかに使い古された。印画紙やフィルムが販売中止続出。今まで出していた色が出せない/すぐに退色する。昨日なんてポジフィルムを探すのに雪の町を彷徨い続けた。
フィルム&印画紙などは誕生して百数十年で僕の目の前で滅びようとしている。ただ、写真(ある一時を複写し平面で表現すること)にはチカラがある。
近年映像の展示が目につくが、写真はモノとして存在させることが出来る点は違うし。写真は写されたものが一時であっても、そこに時間がある。定点観測を凝縮したように一枚で層を感じるものもある。そして展示でも本でも、見る人のタイミングと速度で見る事ができる。
(「写真」という言葉自体への話は、またいつか)

ではまた

(2012.01.19)



# by moto-michi | 2012-01-17 11:04
無題
昨年はお世話になりました。
今年もよろしく。

開けましたが、開けてから「おめでとう」と言ってません。(ほとんど)
昨年はいろいろあったし、忘却へのささやかな抵抗です。

青森は雪です。大雪です。超きれいです。超寒いです。
やはりトゲがあるものは美しいのかもしれません。

ACACは雪山山荘のようです。宿泊棟は英語生活です。
僕が上手くなるより、外国人アーティストが下道英語になれるのが早い。


そういえば、ネット見てたら、行けなかった展示の動画を発見。
とても面白いです。良いタイトル、でも言いにくい。。

今年もがんばってまいりましょう。




『カキカキ・キコキコ・ダダダダダ!』
 KOSUGE1-16
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マペット人形の画家さんは、60年以上前に比治山の麓にアトリエを持っていた山路商さんがモデルになっています。彼は「ダダイスト宣言」をして、あたり前の事を打ち破り、新しい事を追求していました。彼のアトリエには毎日沢山の芸術家が集まって、新しい芸術についての様々な議論をしていたそうです。そんな中、日本は戦争の時代に突入しました。山路さんは太平洋戦争開戦翌日に特高(特別高等警察)に逮捕連行されてしまいました。日本の国が自由な表現を快く思わない時代には、新しい表現しようとした人たちは大変苦労したそうです。山路さんは獄中で結核を煩い、釈放後まもなく亡くなってしまいました。山路さんは比治山を題材にした作品も沢山描いていましたが、広島に原子爆弾が投下され、作品の数々は消失してしまいました。現在では、彼の代表作は殆ど残っていません。しかし、山路さんと互いに影響し合った多くの芸術家達がその後活躍しました。
今回の展示は山路さんのアトリエをイメージして作りました。ここは沢山の子どもたちが集まって、マペットの山路さんと紐を通じて対話し、皆で影響し合うアトリエです。マペットの山路さんは、アトリエに集まるみんなに操られ、前衛的なパフォーマンスと斬新なドローイングを披露しながら、子ども達が楽しく遊ぶ比治山を描いています。
正面の壁には絵の無い額が沢山掛かってますが、会期中にこの壁を、マペット山路商さんの新作で埋め尽くして下さい!
新作のサインはKKD(カキカキ・キコキコ・ダダダダダ)です。
あと、本物の山路商さんの自画像が1枚展示されていますよ。

KOSUGE1-16より
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# by moto-michi | 2012-01-15 01:28
2012

http://m-shitamichi.com/







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# by moto-michi | 2012-01-02 02:16
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# by moto-michi | 2011-12-30 23:05



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